WBCの「黒船」来襲:Netflix独占配信がもたらす日本社会の視聴モデル転換
2026年3月に開催される第6回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)。前回大会で日本中が熱狂の渦に巻き込まれ、見事世界一に輝いた記憶も新しい中、次大会の放映権を巡るニュースが日本社会に大きな波紋を広げています。なんと、WBCの日本国内における全試合独占配信権をNetflixが獲得したというのです。
これまで「国民的行事」として、老若男女が無料で視聴できたWBC。今回の「地上波テレビ放送なし、Netflix独占」という決定は、多くの人々にとって寝耳に水だったことでしょう。特に、テレビを中心に生活する高齢者層や、そもそも動画配信サービスに馴染みのない人々からは戸惑いや反発の声が上がっています。しかし、この一見ネガティブな出来事は、単なる視聴環境の変化にとどまらず、日本社会のエンターテインメントの楽しみ方、ひいては文化そのものの大きな転換点となるかもしれません。
世代間の「視聴格差」と高齢者層への懸念
WBCは、野球ファンだけでなく、普段は野球を見ない層まで巻き込む一大イベントです。テレビの前に家族や友人が集まり、一緒に応援することで生まれる一体感は、日本の文化として深く根付いていました。しかし、今回のNetflix独占配信は、この文化を揺るがしかねない大きな問題を提起しています。
デジタルデバイド、つまり情報格差の問題です。Netflixを視聴するには、スマートフォンやタブレット、インターネットに接続されたテレビなどの視聴環境に加え、契約手続きが必要です。これらは、デジタルネイティブ世代にとっては当たり前のことですが、高齢者層にとっては大きなハードルとなります。
- 契約手続きの複雑さ: インターネットでのクレジットカード登録や、複雑なプラン選択に抵抗を感じる方は少なくありません。
- 視聴環境の整備: 自宅にWi-Fi環境がない、インターネットに接続できるテレビがない、といった物理的な障壁も存在します。
- 操作の不慣れ: 普段から動画配信サービスを利用していない場合、アプリのダウンロードやログイン、再生方法といった操作そのものが困難に感じられます。
実際に、インターネット上では「これでWBCが見られなくなる」といった悲嘆の声や、「視聴者数が激減するのではないか」といった懸念が多数見受けられます。地上波テレビという誰にとっても開かれたプラットフォームから、特定のサービスを契約しなければ見られないクローズドなプラットフォームへの移行は、既存の視聴者を切り捨てるのではないか、という不安はもっともなものです。
高齢者の「視聴困難」を乗り越えるための社会的な取り組み
このデジタルデバイドを解消し、高齢者層がWBCを視聴できるようにするためには、行政と民間の双方による協力が不可欠です。すでに多くの団体が具体的な対策の検討を始めています。
行政(地方自治体・国)の役割
行政は、情報格差の是正に向けたインフラ整備と教育支援が主な役割となります。
- ライブビューイングの開催支援: 公民館や地域のコミュニティセンター、公共施設などを活用し、高齢者向けのライブビューイングを開催することが考えられます。大型スクリーンでのパブリックビューイングは、視聴環境を持たない高齢者でも試合を観戦できるだけでなく、地域住民の交流の場にもなります。
- 講習会の実施: スマートフォンやタブレットの操作方法、動画配信サービスの利用登録方法などを学ぶ講習会を、各地の役所や市民センターで定期的に開催することが有効です。操作に慣れたボランティアスタッフが個別にサポートすることで、高齢者の不安を和らげる効果も期待できます。
民間企業・団体の役割
企業は、ビジネスチャンスと社会貢献を両立させる形で、サービスの拡充を進めるでしょう。
- 通信事業者によるサポートプラン: インターネット回線事業者や携帯電話会社は、Netflixの利用に特化した高齢者向けのサポートプランを提供することが考えられます。例えば、初期設定や操作方法に関する専門の電話サポート窓口の設置、訪問による設定代行サービスなどが挙げられます。
- 家電量販店での設定代行サービス: 家電量販店は、インターネット接続や動画配信サービスの初期設定を代行するサービスを強化する可能性があります。特に、スマートテレビやストリーミングデバイス(Fire TV Stickなど)の購入とセットで、すぐに視聴できる状態まで設定を行うサービスは、高齢者にとって非常に有用です。
- 地域のボランティア団体による技術支援: 高齢者の孤立防止などを目的とする地域のNPOやボランティア団体が、高齢者宅を訪問し、技術的な支援を行う活動も重要です。若者やデジタルリテラシーの高いシニア層が、地域の「デジタルサポーター」として活躍する機会が生まれるかもしれません。
スポーツは「有料」で見るものへ、加速するサブスク文化
一方で、この動きは必然的な流れであるという見方もあります。日本のスポーツ界では、すでに「スポーツは有料で視聴するもの」という文化が浸透しつつあります。
サッカーのJリーグは、2017年からDAZNとの大型契約により、試合の独占ライブ配信を開始しました。当初は反発や戸惑いもありましたが、今や「スマホでJリーグを見る」ことは若年層・中年層にとってごく当たり前の習慣となっています。プロ野球も、地上波の露出が減り、スカパー!やDAZN、パ・リーグTVといったCS放送やネット配信サービスが主流となり、コアなファンはすでに有料サービスを利用しています。
こうした変化の背景には、放映権料の高騰があります。質の高いコンテンツを制作・提供するには莫大な資金が必要となり、その費用を有料サービスで賄うというビジネスモデルが確立されてきました。NetflixがWBCの放映権を約150億円という巨額で獲得したという報道からも、この流れは明らかです。地上波テレビ局が広告収入だけでは賄いきれないほどの高額な放映権料を、Netflixが潤沢な資金力で獲得したことは、日本のコンテンツビジネスにおいて一つのターニングポイントと言えるでしょう。
ビッグイベントが「視聴習慣」を一気に変える
それでもなお、WBCのような国民的イベントが、なぜ地上波から消えてしまうのか?その答えは、近年の人々のライフスタイルの変化と、ビッグイベントが持つ「視聴習慣を変える力」に隠されています。
2022年のサッカーW杯カタール大会では、ABEMAが全64試合を無料配信するという大胆な試みで大成功を収めました。深夜や早朝の試合でも、多くの人々がスマートフォンやPCで視聴し、SNSで熱狂を共有しました。「テレビで見る」から「スマホで国際大会を見る」という新しい視聴体験を国民規模で広め、ABEMAの知名度を一気に押し上げました。
今回のWBCも同様に、巨大なイベントが、人々の「配信サービスでスポーツを見る」という習慣を定着させる役割を担う可能性があります。若者世代にとっては、テレビに縛られず、通勤中の電車や休憩時間など、好きな場所で好きな時に試合を楽しめるメリットは大きいでしょう。また、見逃し配信やハイライト映像をオンデマンドで視聴できる利便性は、多忙な現代人のライフスタイルに合致しています。
新しい時代の「同時性」とエンターテインメントの未来
今回のNetflix独占配信を、単なる「地上波の終焉」と捉えるのは早計かもしれません。むしろ、これは「視聴社会へのソフトランディング」として捉えることができます。
- 「共有する楽しさ」の再定義: 家族みんなでテレビの前に集まる「物理的な同時性」から、各自が手元のデバイスで視聴しながら、SNSで感想を投稿し合う「デジタルな同時性」への転換です。ハッシュタグを介して見ず知らずの人々と熱狂を共有する新しいコミュニティが生まれるかもしれません。
- 選択肢の拡大: 視聴者は、地上波の固定されたタイムテーブルから解放され、見たい試合を、見たいタイミングで、見たい場所で自由に選ぶことができるようになります。
WBCのNetflix独占配信は、日本のエンターテインメントの楽しみ方が、テレビ中心の時代から、個人のライフスタイルに合わせた多様な選択肢を持つ時代へと移行する、歴史的な出来事と言えるでしょう。もちろん、高齢者層への配慮や、視聴環境の整備といった課題は残りますが、その一方で、これまでスポーツをあまり見なかった層が、手軽にアクセスできるようになったという側面もあります。
私たちは今、大きな過渡期にいます。WBCという国民的イベントをきっかけに、メディアの未来がどのように変化していくのか、この動向を注視していく必要があるでしょう。

